夜の川の話

夜に橋を渡りながら川を見たら怖くなった。なにしろ、暗闇の中の大量の水は怖い。夜であるがゆえ、おそらく昼間なら気にならないであろう、打ちつける水の音も聞こえ、それがまた、思ったより怖い。落ちれば、水中からはもう何も見えないだろうと想像して怖いし、その一方で、ふと飛び込んでみたくなるような衝動が不意に起こってきて、怖い。果たして、飛び込んでみたいという衝動を無理にも抑え、このまま飛び込まずにいられるのかどうか、という賭けが怖いのである。

橋から、更に川に近い遊歩道部分への階段を降り、柵越しに、夜の真っ黒な川を覗いてみる。打ちつける水音がよく聞こえる。この音に紛れて、まるで何事もないかのように落ちてしまえばいいのではないかという気がしたり、ふと、風呂にためた湯の音を思い返したりする。

その言葉は、あまりに おとなげない

これは、なにも今初めて気づいたというようなことでもなく、そもそもわかりきっていたことであり、3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ文章を通して、改めて実感した、ということなのであるが。

 
その文章は、とりあえず大人の女性の書いたものであることはわかった。そしてそこには、皮肉まじりに、他人の容貌や能力を小馬鹿にしていることを仄めかす言葉が書き連ねられており、それはその女性にとって、遺恨のある相手へ向けた、腹いせのようであった。

 

まあ、人間、なにかしらの遺恨を抱えていることもあるだろう。私とて、恨みを買ったことならある。かつて、少々自分勝手な言い分を持つ女性から、ある事柄についての説明を求められたことがあった。それに応じて説明はしたので、わかってくれたのであろうと思っていた。しかしどうも、単に説明を求めただけではなかった、ということがあとでわかったのである。というのも、その人物は私のとある行動を気に入らないと思っており、つまりは 「こちらの気に入らない行動を取るな」 ということを私に言いたかったようなのであるが、私のその行動というのが、そもそもその人に制限されなければならないようなことでも何でもなかった。本来、本人の意思で行動すればいいだけの事柄であった。そのため私は、そうやって説明を求められたということに関しても、“遠回しな行動制限” だとは受け取らず、ただ単に説明を求められただけであり、それに対してもきちんと答えた、と認識していた。先に書いたように、その人が気に入らないと思っていた私の行動というのは、人から制限を受けなければならないような類のことではない。当然、その人の許可が必要なわけでもない。だから、説明に応じたあと、私は同じ行動を取った。本来、自由に行動していい類のことだったからである。するとその人は、私の行動自体が気に入らないだけでなく、“遠回しな行動制限” が通じなかった、つまり私がその人の言いなりにならなかったことも気に入らなかったようで、私がその行動を取るたびに、不機嫌になり、怒りを露にするようになった。以来、それなりの時間が経っているが、その時買った恨みがどうもまだ継続中であるらしきことが最近わかり、わりあいに驚いているのであるが。

 

“3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ文章” の話に戻る。それは、大人の女性の書いたものであった。そこには、皮肉まじりに、他人の容貌や能力を小馬鹿にしていることを仄めかす言葉が書き連ねられており、それはその女性にとって、遺恨のある相手へ向けた、腹いせのようだった。ただただ、相手を貶めることだけが目的の、まったく論理的でない、文字通りの腹いせである。

 

容貌や能力を引き合いに出して他人を馬鹿にするという、これまたずいぶんと子供っぽい腹いせであるが、思ったのは、この女性はこんなことで果たして満足できるのだろうかということと、恥ずかしくないのだろうかということだ。つまり、恨みつらみを言うにしても、(あえてこういう表現をするが)やり方があまり巧くない、と。

 

まず、こんなことで満足できるのだろうか、という点について。遺恨があるとはいえ、言いたいことを論理的に言う(書く)でもなく、ただ無闇に相手を馬鹿にし貶めるというのは、結局は、その遺恨の元となった出来事から ずれていくだけであって、当然、これで解決するはずもない。それともこの女性は、解決を求めているわけではなく、遺恨のある相手をただ馬鹿にしさえすれば気が済む、とでもいうのだろうか。それではまるで子供の喧嘩ではないか、と思ってしまうが。相手を馬鹿にすることによって、優越感的なものは感じられたのかもしれないが、他人を貶めて得た優越感とは、果たしてそれほど役に立つものであろうか。

そして、恥ずかしくないのだろうか、という点について。遺恨の原因となったことに触れるでもなく、ただ無闇に相手を貶め馬鹿にし腹いせをするというのは、つまりはそれだけ感情的になっている、ということである。当然、相手も大人であれば、そのぐらいわかる。これは言うなれば、《こういう時に、冷静かつ論理的に話す(書く)ということが出来ない人間である》 《感情的になると見境がなくなり、暴言を吐くタイプの人間である》 と、相手に対して自ら認めたも同然である。言いたいことを論理的に表すことなく、相手に暴言を吐くだけとなれば、結局はそうなる。ただ、子供の喧嘩ではないのだ。遺恨のある相手に対し、自らのそのような面を見せるのは、大人としてはやはりそれなりに恥ずかしいことではないかと思うのだが、この女性は、そのへんはどう思っているのだろうか。腹いせを言って(書いて)自分の気が済めばそれでいい、ということなのだろうか。それではあまりにも、おとなげないと思うのだが。

 

果たして。 相手に《論理的でない人物》だと思われるということと引き換えにしてでも、一時の怒りや不機嫌にまかせた感情的な言葉をぶつけて、腹いせしたい、とにかく何か言ってやりたい、ということなのだろうか。 そういう、“言ってやった” というような感覚は、その時はそれで気が済んでいいのかもしれないが、まあ、何といっても、おとなげないことこの上ない。これに尽きる。なにしろその女性は、容貌という、本来は相手の落ち度ではないこと、そして おそらく、遺恨の原因となったわけでもないであろう それをネタに、無闇に相手を馬鹿にする言葉を書いていたわけである。相手から 「ところで、感情的になってそんなことしか書けないあなたのほうは、いったいどうなんですか」 と つっこまれても (あるいは、あきれられても) 致し方ない。つっこむ余地を自ら与えているわけだから。

 

とりあえず、言いたいことがある時は、やはり論理的に言うなり書くなりしたほうがいい。筋の通らない暴言でもって腹いせをして、そこから相手に伝わることといえば、《冷静さを欠いた、おとなげない物言いしかできない人物》 である、ということ。 これのみだ。

 

これは、なにも今初めて気づいたというようなことでもなく、そもそもわかりきっていたことである。ただ、3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ言葉を通して、改めて実感した、ということである。

 

 

4月28日

本を読めなくなった理由(2014/03/18の記録)

 今年初めにここで書いたような理由と、整理・記録の意味もあって、別のところで昨年書いたものを、ここにも移しておくことに。

 

今年初めのもの:

antoinedoinel.hatenablog.jp


以下、別のところで昨年書いたもの:

 

 

本を昔ほど読まなく(読めなく)なってから、どれぐらいになるか、と考えた。それなりに長い。と言っても、興味がないとか、読むのが億劫だとかいうことでもなく。

 

昔なら、むしろ本に没頭したいほうだった。しかし、本さえ読んでいれば満足だった頃と違い、日常的に、とにかくいろんな気がかりが増えていく。手をつけたいのになかなか手をつけられず、そのままになっていくことが増える。解決しないことが増える。考えても考えてもラチがあかないことを考え続けたりする。そのうち、本を読むことに没頭すると、「しなければならないことがあるのに、それには手をつけず、本を読んでいるがために、何も進まない」 という状態に対して、多少の罪悪感のようなものを感じるようになる。読む前から、その罪悪感的なものを感じると、だんだん、本に手が出なくなる。偶然にも、映画を見るようになって、映画館に頻繁に行くようになると、映画が、昔没頭した本のかわりのような感じになった。

 

映画館で映画を見ると、開始時刻・終了時刻は、当然のことながら、確実に、決まった通りだ。こちらが都合をつけて映画館に行きさえすれば、必ず決まった時間に始まって、決まった時間に終わる。確かに、映画を見ている間も、「しなければならないことがあるのに、それには手をつけず、何も進んでいない」 という状態に変わりはないのだが、2時間なら2時間、見ている時間の長さが確定している、と思うと、「しなければならないことに手をつけないのはその2時間だけ、考えなければいけないことを考えないのはその2時間のあいだだけ」 と思えて、気が楽になる。この場合、たとえ実際には 「2時間だけ」で 済まなかったとしても、それはもはや問題ではなく、時間が決まっていることによって罪悪感が薄れ、一瞬でも気が楽になる、という点が、もっとも重要なことであったりする。本に没頭するのと変わらないぐらいの、あるいはそれ以上の時間を、実際には割いていたとしてもだ。なおかつ、部屋の中で映画を見ると、いやでも日常が目に入るし、一時停止も出来てしまうが、映画館なら、スクリーンと座席しかないところで、映画以外のものを目に入れずに済む(ほかの観客がいることは、どうしようもないことなので、それはまた別の話である)し、上映が途中で途切れて終了時刻が変わる、ということもない。

 

それで、昔は本に没頭していたものが、映画がそれに取って代わった。決まった時間だけ、スクリーンしかない場所で映画だけを見る、というのが、現実の問題や日常の疲れに目を背ける方法となった(なってしまった)。本に時間を割くと、しなければならないことがほかにもあるのにしていない、という後ろめたさは、やはり今でも感じるので、相変わらず、昔のようには本が読めない。読まなければ、その分、何かしらの気がかりや問題が片付く、というわけでは、決してないにも関わらず。しかし、映画館で 「この映画を見ているあいだだけ、何もしないし、何にも手をつけない」 「何もせず、何にも手をつけないのは、この映画を見ているあいだだけ」 と思うと、気が楽になる瞬間がある。だから、部屋で見るより、映画館に行きたい(そもそも、そんなに気がかりがあるなら、それを先に片付けたらどうだ、と思われるかもしれないが、とはいえ、なんでも思い通りにことが運んだり、解決したりするわけでもないゆえ。)

 

もちろん、映画を、ただそういう理由のためだけに見ているのはなく、映画が好きだ、という大前提が、あってこそであるが。

 

2014/03/18