その言葉は、あまりに おとなげない

これは、なにも今初めて気づいたというようなことでもなく、そもそもわかりきっていたことであり、3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ文章を通して、改めて実感した、ということなのであるが。

 
その文章は、とりあえず大人の女性の書いたものであることはわかった。そしてそこには、皮肉まじりに、他人の容貌や能力を小馬鹿にしていることを仄めかす言葉が書き連ねられており、それはその女性にとって、遺恨のある相手へ向けた、腹いせのようであった。

 

まあ、人間、なにかしらの遺恨を抱えていることもあるだろう。私とて、恨みを買ったことならある。かつて、少々自分勝手な言い分を持つ女性から、ある事柄についての説明を求められたことがあった。それに応じて説明はしたので、わかってくれたのであろうと思っていた。しかしどうも、単に説明を求めただけではなかった、ということがあとでわかったのである。というのも、その人物は私のとある行動を気に入らないと思っており、つまりは 「こちらの気に入らない行動を取るな」 ということを私に言いたかったようなのであるが、私のその行動というのが、そもそもその人に制限されなければならないようなことでも何でもなかった。本来、本人の意思で行動すればいいだけの事柄であった。そのため私は、そうやって説明を求められたということに関しても、“遠回しな行動制限” だとは受け取らず、ただ単に説明を求められただけであり、それに対してもきちんと答えた、と認識していた。先に書いたように、その人が気に入らないと思っていた私の行動というのは、人から制限を受けなければならないような類のことではない。当然、その人の許可が必要なわけでもない。だから、説明に応じたあと、私は同じ行動を取った。本来、自由に行動していい類のことだったからである。するとその人は、私の行動自体が気に入らないだけでなく、“遠回しな行動制限” が通じなかった、つまり私がその人の言いなりにならなかったことも気に入らなかったようで、私がその行動を取るたびに、不機嫌になり、怒りを露にするようになった。以来、それなりの時間が経っているが、その時買った恨みがどうもまだ継続中であるらしきことが最近わかり、わりあいに驚いているのであるが。

 

“3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ文章” の話に戻る。それは、大人の女性の書いたものであった。そこには、皮肉まじりに、他人の容貌や能力を小馬鹿にしていることを仄めかす言葉が書き連ねられており、それはその女性にとって、遺恨のある相手へ向けた、腹いせのようだった。ただただ、相手を貶めることだけが目的の、まったく論理的でない、文字通りの腹いせである。

 

容貌や能力を引き合いに出して他人を馬鹿にするという、これまたずいぶんと子供っぽい腹いせであるが、思ったのは、この女性はこんなことで果たして満足できるのだろうかということと、恥ずかしくないのだろうかということだ。つまり、恨みつらみを言うにしても、(あえてこういう表現をするが)やり方があまり巧くない、と。

 

まず、こんなことで満足できるのだろうか、という点について。遺恨があるとはいえ、言いたいことを論理的に言う(書く)でもなく、ただ無闇に相手を馬鹿にし貶めるというのは、結局は、その遺恨の元となった出来事から ずれていくだけであって、当然、これで解決するはずもない。それともこの女性は、解決を求めているわけではなく、遺恨のある相手をただ馬鹿にしさえすれば気が済む、とでもいうのだろうか。それではまるで子供の喧嘩ではないか、と思ってしまうが。相手を馬鹿にすることによって、優越感的なものは感じられたのかもしれないが、他人を貶めて得た優越感とは、果たしてそれほど役に立つものであろうか。

そして、恥ずかしくないのだろうか、という点について。遺恨の原因となったことに触れるでもなく、ただ無闇に相手を貶め馬鹿にし腹いせをするというのは、つまりはそれだけ感情的になっている、ということである。当然、相手も大人であれば、そのぐらいわかる。これは言うなれば、《こういう時に、冷静かつ論理的に話す(書く)ということが出来ない人間である》 《感情的になると見境がなくなり、暴言を吐くタイプの人間である》 と、相手に対して自ら認めたも同然である。言いたいことを論理的に表すことなく、相手に暴言を吐くだけとなれば、結局はそうなる。ただ、子供の喧嘩ではないのだ。遺恨のある相手に対し、自らのそのような面を見せるのは、大人としてはやはりそれなりに恥ずかしいことではないかと思うのだが、この女性は、そのへんはどう思っているのだろうか。腹いせを言って(書いて)自分の気が済めばそれでいい、ということなのだろうか。それではあまりにも、おとなげないと思うのだが。

 

果たして。 相手に《論理的でない人物》だと思われるということと引き換えにしてでも、一時の怒りや不機嫌にまかせた感情的な言葉をぶつけて、腹いせしたい、とにかく何か言ってやりたい、ということなのだろうか。 そういう、“言ってやった” というような感覚は、その時はそれで気が済んでいいのかもしれないが、まあ、何といっても、おとなげないことこの上ない。これに尽きる。なにしろその女性は、容貌という、本来は相手の落ち度ではないこと、そして おそらく、遺恨の原因となったわけでもないであろう それをネタに、無闇に相手を馬鹿にする言葉を書いていたわけである。相手から 「ところで、感情的になってそんなことしか書けないあなたのほうは、いったいどうなんですか」 と つっこまれても (あるいは、あきれられても) 致し方ない。つっこむ余地を自ら与えているわけだから。

 

とりあえず、言いたいことがある時は、やはり論理的に言うなり書くなりしたほうがいい。筋の通らない暴言でもって腹いせをして、そこから相手に伝わることといえば、《冷静さを欠いた、おとなげない物言いしかできない人物》 である、ということ。 これのみだ。

 

これは、なにも今初めて気づいたというようなことでもなく、そもそもわかりきっていたことである。ただ、3月終わりの数日間のうちにネット上にて読んだ言葉を通して、改めて実感した、ということである。

 

 

4月28日