本を読めなくなった理由(2014/03/18の記録)

 今年初めにここで書いたような理由と、整理・記録の意味もあって、別のところで昨年書いたものを、ここにも移しておくことに。

 

今年初めのもの:

antoinedoinel.hatenablog.jp


以下、別のところで昨年書いたもの:

 

 

本を昔ほど読まなく(読めなく)なってから、どれぐらいになるか、と考えた。それなりに長い。と言っても、興味がないとか、読むのが億劫だとかいうことでもなく。

 

昔なら、むしろ本に没頭したいほうだった。しかし、本さえ読んでいれば満足だった頃と違い、日常的に、とにかくいろんな気がかりが増えていく。手をつけたいのになかなか手をつけられず、そのままになっていくことが増える。解決しないことが増える。考えても考えてもラチがあかないことを考え続けたりする。そのうち、本を読むことに没頭すると、「しなければならないことがあるのに、それには手をつけず、本を読んでいるがために、何も進まない」 という状態に対して、多少の罪悪感のようなものを感じるようになる。読む前から、その罪悪感的なものを感じると、だんだん、本に手が出なくなる。偶然にも、映画を見るようになって、映画館に頻繁に行くようになると、映画が、昔没頭した本のかわりのような感じになった。

 

映画館で映画を見ると、開始時刻・終了時刻は、当然のことながら、確実に、決まった通りだ。こちらが都合をつけて映画館に行きさえすれば、必ず決まった時間に始まって、決まった時間に終わる。確かに、映画を見ている間も、「しなければならないことがあるのに、それには手をつけず、何も進んでいない」 という状態に変わりはないのだが、2時間なら2時間、見ている時間の長さが確定している、と思うと、「しなければならないことに手をつけないのはその2時間だけ、考えなければいけないことを考えないのはその2時間のあいだだけ」 と思えて、気が楽になる。この場合、たとえ実際には 「2時間だけ」で 済まなかったとしても、それはもはや問題ではなく、時間が決まっていることによって罪悪感が薄れ、一瞬でも気が楽になる、という点が、もっとも重要なことであったりする。本に没頭するのと変わらないぐらいの、あるいはそれ以上の時間を、実際には割いていたとしてもだ。なおかつ、部屋の中で映画を見ると、いやでも日常が目に入るし、一時停止も出来てしまうが、映画館なら、スクリーンと座席しかないところで、映画以外のものを目に入れずに済む(ほかの観客がいることは、どうしようもないことなので、それはまた別の話である)し、上映が途中で途切れて終了時刻が変わる、ということもない。

 

それで、昔は本に没頭していたものが、映画がそれに取って代わった。決まった時間だけ、スクリーンしかない場所で映画だけを見る、というのが、現実の問題や日常の疲れに目を背ける方法となった(なってしまった)。本に時間を割くと、しなければならないことがほかにもあるのにしていない、という後ろめたさは、やはり今でも感じるので、相変わらず、昔のようには本が読めない。読まなければ、その分、何かしらの気がかりや問題が片付く、というわけでは、決してないにも関わらず。しかし、映画館で 「この映画を見ているあいだだけ、何もしないし、何にも手をつけない」 「何もせず、何にも手をつけないのは、この映画を見ているあいだだけ」 と思うと、気が楽になる瞬間がある。だから、部屋で見るより、映画館に行きたい(そもそも、そんなに気がかりがあるなら、それを先に片付けたらどうだ、と思われるかもしれないが、とはいえ、なんでも思い通りにことが運んだり、解決したりするわけでもないゆえ。)

 

もちろん、映画を、ただそういう理由のためだけに見ているのはなく、映画が好きだ、という大前提が、あってこそであるが。

 

2014/03/18